K子さん、ごめんなさい

 彼女と知り合ったのは、大学2年の夏。東京から夏休みで帰省する新幹線の中だった。彼女は東京のS女子大の一つ歳下で、愛媛に同じく帰省していた。それから付き合いが始まった。ぼくはいわゆる“ノンポリ学生”。大学にもろくに行かず、麻雀、パチンコ、競馬等々の日々。月々の仕送りなんかは10日もあればギャンブルですべて消えてしまっていた。自分の“遊び金”欲しさに彼女をアルバイトに行かせ、そのうち「女は大学なんかに行かなくていいよ。結婚相手のオレがいいと言ってるし…」。彼女は大学を中退し、その頃から彼女はパブで働くようになっていた。ところが大学4年になり、ぼくには別に好きな女性が現れ、彼女から遠ざかっていくようになった。彼女は一度ならず、僕の前で涙を流した。「ごめん、…許してほしい」。あれから彼女は、自分の目指す道を見つけ、再び大学を受けなおして社会で活躍し、幸せな結婚生活も送っていると聞いている。こんな一言で許されるとは思っていませんが、心から謝ります。K子さん、あの時、いやあの頃は、本当にごめんなさい!! 

研究員 佐藤 利幸


岡本君、ごめんなさい

 昭和4?年4月20日(土)の午後、学校から帰るとすぐにぼくは財布と時刻表を机の上に取り出し、明日の“福井日帰り旅行”のスケジュールをたて始めた。「お前、ほんまに行くんか?」横には友人の岡本君がいた。「オレ、行く言うたら行くんや!…あったあったこれが一番ええ」2年の時、ぼくは軽音楽部の部長になり、彼女は一つ年下、1年生で入部してきた。名前は“優子”、成績も良く可愛くて、後輩男子の憧れの的だった。友人達の羨望を横目に、職権も乱用して付き合い始めたが、それも束の間。法務省の高級官僚であった彼女の父の移動で、福井へ転居してしまった。ひと月ほど手紙のやりとりがあったが、彼女に会いたい気持ちがつのり、この日帰り旅行を思い立ったのだ。桟橋で岡本君の見送りを受け、日曜早朝4時05分の連絡船に乗り、「急行鷹羽・大阪行」、「特急白鳥・青森行」と乗り換えて、彼女の住む福井の町に到着した。「もしもし、高松の吉田道夫ですが」「ああ、吉田さん。今どちらですか?」「福井駅です」「えっ!ち、ちょっと待ってください。…今、優子に替わりますから」母親の驚きと、勉強の疲れ(翌日の高3最初の学力試験に向けて、ちゃんと真面目に赤尾好夫の豆単持参)も彼女の声を聞いた途端、遠い世界のことのように思えた。国鉄の旅費しか計算していなかったぼくは20分程歩いて彼女の家に到着。あまりにも常識を逸脱した、不意の訪問者だったに違いない。「優子の父です。…ところで、ご両親には話されて来られましたか?」「いえ、日帰りですから」両親の洗礼の後、ぼくはギター、彼女はピアノで歌った。♪バラ色の雲と♪…1時間程の幸福な時間の後、「優子、駅まで送って行ってあげなさいね」彼女、いや、家族の最後の思いやりで、春うららかな足羽川の堤防を歩いて、福井の駅に着いた。発車のベルが鳴りドアが閉まる寸前、彼女を列車にひっぱりこもうという衝動にかられたことを今でも鮮明に覚えている。そして、あれから1年経って一通の手紙が届いた。「私も無事大学に合格しました。アポロ宇宙船も月に着陸したし、これからは私たちの時代…。お互い頑張りましょう。」手紙のお礼も出さないまま25年が経過しましたが、今、ここで心から謝罪します。手紙ありがとう。あの時は、あんなむちゃしてごめんなさい。それと、あの時あれ程心配をかけ、高松桟橋で送り迎えまでしてもらいながら、交通費が足りずに500円借りて、たぶん返さなかった岡本君、ごめんなさい。

所長  吉田 道夫


 喫茶店の皆様、ごめんなさい

 今を去ること30年前、高校2年の春。当時流行っていたのは喫茶店アラシ。とは言っても、喫茶店のマッチ、ピッチャー、灰皿等を集めるのが目的でした。その日は、下校途中に中央通り沿いにある「純喫茶アズマヤ」へ。そこで目に止まったのが、“アズマヤ・オリジナル灰皿”。直径6センチの丸型ガラス製で、底には紺色の丸に『a』のヌキ文字がくっきりと…。そのシンプルなデザインに感激!早速自分のコレクションに加えたいと思い、胸のポケットへ…。ところが、不信に思ったウェイトレスの目に止まっていたのだろう、払いをすませて外へ出た途端、店長が飛んできた。「灰皿を返してください。正直に出したら、学校へ連絡しないから…。」しかし私は知らぬ一点ばりでスコタラと。ところが、仲間の一人がチクッてしまった。(裏切り者め!)しぶしぶ私はその灰皿を差し出してしまった。その後で「学校の身分証を見せろ」と言われたが、それを見せればヤバイと思い、少林寺拳法の身分証を見せてしまった。(当時、大手前高校には少林寺同好会があった)次の日の朝礼で、早速部長(生徒指導)から部員全員残され、キツイ説教があった。運よく停学にはならなかったのでホッとした。「学校には連絡しない」と言ったアズマヤの店長のニクかったこと。それから20年位はアズマヤには行ったことがなかった当時集めた灰皿、ピッチャーは、机の引出し2段分位ビッシリ入っていた。当時の喫茶店の皆様、あの頃はごめんなさい!!

研究員 香西 彰美 


S君、ごめんなさい

 S君と私は小学校以来同じ学校の同窓生で、何度か同じクラスになったことはあったが私がガキ大将でS君はおとなしく温厚な性格であったこともあり、そんなに親しい間柄ではなかった。中学3年の新学期の出来事である。同じクラスに頭はシートカットで目が丸く、一見都会育ちの上品な私好みのタイプ、Fさんが高松から転校して来たのである。S君も彼女に好意を寄せていたことは知っていたが、しばらく経ってあのおとなしいS君とF子さんが付き合っていることを知り、私は悔しくて居ても立ってもいられず、“横取りしよう”と彼女に対する私の思いを手紙に託し、手渡したのである。その結果、まんまと彼女は私と付き合うことになったが、このことはS君は全く知らず、単にフラレたものと思い込んでいたらしい。その後、3人はそれぞれ別の高校に進学し、私とS君とは現在でも会っているが、F子さんとは二人とも中学校卒業以来一度も会っていない。S君、あの時は本当にごめんなさい。

主任研究員 藤井 一三


近所のお兄ちゃん、ごめんなさい

 私が4才の時だったと思うけど、理由なんて何故か今もわからない。でも、投げた石がお兄ちゃんの眼に当たり、真っ赤な血がホッペに流れたのを覚えてる。それから数日経っったお兄ちゃんの眼には、眼帯が付けられていた。あの時「ごめんなさい」が言えなかったわ・た・し……。今も、その事件を思い出すと胸が“キューン”と痛くなります。お兄ちゃん、ゴメンナサイネ。

研究員 新浜 信子


船主さん、ごめんなさい

 1961年、私がちょうど10歳の時でした。いつもの生島湾で友達とふたりで釣りに行きましたが全く釣れず、場所を移動しようと思ったところ、目に入ったのがなんとちょうど手頃なボートであった。周りを見渡しても誰もいる様子がなかったので、「ちょっとかるだけやけん、かまんやろ」と言うやいなや、私は友達を乗せてボートを漕ぎだしていた。……かなり沖の方へ出て再度釣りを試みたが、その日は潮の流れが悪くふたりとも全く釣れず、「もう、帰ろう!ぜんぜんいかんわ」と友達が言いだしたので、私もその意見に同意した。乗ってきたボートを元の船着場に返そうとその方向に漕いだものの、潮の加減でその場所に帰れず、対岸の砂浜に座礁してしまった。もういまさらもとの場所に返す元気もなく、そのボートを乗り捨ててしまいました。あの時置き去りにしたボートと船主さん、ごめんなさい。ボート、見つかりましたか?

研究員 坂口 稔


おまわりさん、ごめんなさい

 たしか、私が小学校5年か6年生だった頃、弟と学校へ行っていた時のことです。その途中、橋の上で500円札を見つけて、先生に届けると言いだしたのです。ところが、私は弟に、500円は私が先生に届けると言ってそのまま預かったのです。その時、ちょうどお小遣いの不足していた私にとっては、のどから手が出るほどその500円札が欲しかったのです。そして、悪いなぁーと思いつつ、その500円札を着服してしまったのですあの時、500円はてっきり先生に渡ったものと信じている弟、そしてお巡りさん、本当にごめんなさい。みなさんも拾ったお金は、警察に届けましょう。今では“500円札”を拾うことなど、ないとおもいますけど…。

研究員 溝渕 香


私のせいで交通違反をしたみなさん、ごめんなさい

 30年近く前のこと、4,5枚だったと思いますが、S君が道路標識をはずして私の部屋にもって来ました。(実は私がそゝのかしたのですが…つまり窃盗教唆?)私は悪いとは思いましたが、今からもう返しようもなく、自分の部屋の壁に飾りました。というのは私の部屋は当時親のいるところから少し離れていましたので、友達がいっぱい集まって来る、いわゆる“たまり場”でした。わが研究所の所長も時々部屋にやって来ては、タバコを吸いながらギター(フォークソングが中心)を弾いていたことを特筆しておきます。話がそれましたが、後から考えると、標識がないために駐車違反や一旦停止違反、一方通行進入違反で捕まった人がたくさん出たのではと思い、反省しました。現在の私は家業である「くだもの屋」を継いで毎日忙しい日々を送っていますが、今でも店の近辺で違法駐車をしている車、一旦停止をしていない車を見かける度に、当時の悪事に申し訳なく思っています。おまわりさん、そして私のせいで違反をしたみなさん、本当にごめんなさい。

研究員 野沢 道雄


父さん、お母さん、ごめんなさい

 約30年前、私が東京の大学に入学した直後の頃でした。第一志望の大学に入れず、すべり止めの大学に入ったせいと、やっと親から離れた解放感とで、アパートから大学へ行く途中の乗換駅、新宿で毎日途中下車しては、大学には行かず、映画館や喫茶店、デパートに通っていました。そして入学の際、毎月の生活費の仕送りとは別に「本当に困った時につかいなさい」と言って、母親からもらっていたお金(10万円位だと記憶していますが)も、2ヵ月も経たないうちに使い果たしていました。後からわかったことですが私の行った大学は、当時1年の1学期だけは大学から親に直接、成績票を送ってくるようになっていたようです。つまり、1学期の終わりに両親は出席日数の不足を大学から知らされていたはずだったのです。ところが、両親も特にそのことに関して私には何も言いませんでした。(実は、私の父は後に中学校の校長をした教育者でした)それがわかった後も、直接言葉にして両親に謝罪したことはありませんでした。でも本当に反省しています。この展覧会を借りて初めて謝ります。お父さん、お母さん、本当にごめんなさい。

研究員 田中 敏子


カエル君、ごめんなさい 

 あれは小学校6年生の冬のことでした。当時僕たちのワンパクグループの遊びのひとつに、ロケットごっこが流行していました。市販の花火の火薬を抜き取り、紙筒の中に詰め替えた物の上に、ボール紙でロケット本体を貼り付け、運動場のすみっこでこっそり飛ばしていました。最初のうちは打ち上げる高さを競っていましたが、所詮は子供が作るロケットのため頭打ちとなり、次ぎなる刺激を求めるようになってきました。そこで考えついたのが、カエルをロケット上部に乗せて打ち上げ、パラシュートにより、回収するアイデアでした。白煙とともに空高く舞い上がったロケットは、最高点に達して世界初の飛行カエルとなって、パラシュートにより帰還するはずでしたが、哀れカエル君は、燃え上がったロケットとともに地面に激突しました。カエル君、本当にごめんなさい。

研究員 中島 矢州男
                

「あの時はごめんなさい展」を終えて

60年代文化研究所 所長 吉田 道夫

 先日、高松市内のギャラリーで「あの時はごめんなさい展」というタイトルの展覧会を開催した。遠い昔の罪や、子供の頃のいたずらを告白してそれを詫びる、つまり“大謝罪大会”と言ってよい。私の主宰する「60年代文化研究所」のメンバー24名(研究員は総勢38名)が一人に付一点、謝罪文とそれを表現する写真やイラストを貼付して展示した。つまりその1枚1枚が一つの“作品”であった。あえて作品と表現したのはひとつひとつの謝罪がその人にとって人生の1頁であり、人生の作品そのものだからである。展示にあたっては、謝罪する相手は差し支えがある場合は仮名で表記したが、謝罪する本人はすべて謝罪文とともに実名で掲載した。古今東西、展覧会において仮名で作品を展示するなど聞いたことがなかったからである。そしてもうひとつ、仮名で謝罪するなんてことは本気で謝罪する気持ちがないと判断したからでもある。「○○さん、ごめんなさい」、会期中ギャラリーは“ごめんなさい”が所狭しとひしめき合っており、訪れる人は見入るように一つ一つの作品を鑑賞していた。すでに読み終えているはずなのに、いじわるなのか私は1カ所でしばらくたたずんでいる人を鑑賞して、満足していた。手応えがあった、展覧会は成功だと。作品の前で足を止めている人たちは、おそらく自分とよく似た罪に「ごめんなさい」をしていたに違いない。また、来場者の方が謝罪したくなった時のために、受付には「謝罪箱」を設置した。この細心な心遣いにより、何十もの罪の供養が行われた。「謝ってよ、厚生省」「謝らない、住専関係者」…。今回の企画の成功はある意味ではタイムリーであったかも知れない。展覧会の直後、エイズ問題渦中の製薬会社幹部の人たちが土下座したのは単なる偶然だったのだろうか。
 「60年代文化研究所」は5年前に設立した。それまでは個人的に60年代の音楽やグッズが好きな連中と騒いでいたのだが、「栄光のザ・60年代展」という私が開催したグッズ展で、たまたま取材に来た某国営放送のアナウンサーであった谷口俊二氏(4年前、若くして病死)の提案もあって結成するに至った。当然言い出しっぺの私が所長、そして彼が副所長に。研究所は縦社会であり、次に主任研究員、主任研究員補研究員、研修生と続く。研究員または研修生で入所し、功績により、地位が上がる。最近は出世で、主任研究員いわゆる幹部クラスの数が増え、日本の官公庁、企業と同じように昇進の椅子がなくなり、現在主任研究員の上に研究主幹というポストを検討中だ。アフター「6」の肩書と言えども真剣にこだわっているのである。         古き良きアメリカが50年代であったと言われているが、日本においては1960年代(昭和35年から44年)が、まさに高度経済成長期の“古き良き”時代であった。大人たちは戦後の復興から離れて裕福になることを目標に一生懸命働き、子供たちはそれによってまた家庭に新しい“文化兵器”が導入されることを楽しみにしていた。70年代以降、消費時代の象徴とも言える“使い捨て文化”が生まれ、公害問題も表面化した。(実際は60年代の産物かも知れないのだが)政府高官と大企業との癒着、あまりにも場当たり的な殺人犯罪等々…。60年代の犯罪は概して経済競争に落ちこぼれ、生活難が引き起こした一種“哀れみ”を感じさせた。時代というものは世の中を巨大化させ、改造不可能にまで至らしめるのだろうか。流行文化が繰り返し、トラッドが見直されている現今、私たちは良き時代(60年代がすべてとは言わないが)をもう一度見つめ直してみてはどうだろうか。私たち人間は、経験を基に進歩するための“学習機能”をせっかく神から授かっているのだから・・。               

 











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